富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

張超英『宮前町九十番地』

fookpaktsuen2017-10-16

農暦八月廿七日。未明といふには午前2時に目覚めてしまひ張超英(口述)『宮前町九十番地』*1読む。台風余波で天気不安定。播州龍野は吾妻堂こちら)の栗蒸し羊羹いたゞく。晩に『宮前町九十番地』読了。この本、台北の書店で目についたのは表紙のいかにも御曹司然とした静観な若者が白麻のスーツで葉巻ふかす容貌、爪もきれいに磨き完ぺきな雰囲気が私の琴線に触れ頁を捲つてみると書題の宮前町九十番地は今の中山北路、民権西路と錦西街に挟まれた一角で、台北でアタシがちょうど訪れる機会のあつた(日本人旅行者には馴染み深い)山水旅行社のあるビルの位置。台北市街から台湾神社への参道にあたり「宮前町」と呼ばれたところ。こゝに育つた富豪の三代目が本の表紙にある青年、張超英その人。台北で煤鉱業で三井と組み財をなした豪商(張聡明)、その息子(張秀晢・別名月澄)は日本が統治する台湾で抗日運動に加はり父が台北市宮前町九十番地の豪邸を中華民国駐台領事館に貸すほどの意欲で台湾総督府から要注意活動家で逮捕もされ上海に居を移してゐたが1932年の一二八事変で上海も不穏になり張秀晢は東京に移住し東京帝大の神川松彦博士の研究室で国際法と外交史を学ぶ英才。当時の東京で自動車を有し秘書までつけた台湾からの学生であつた。そこで張超英は生まれ台湾に戻るが父は台湾総督府から禁返台令を受け上海に留まり(母は早逝で)祖母に宮前町九十番地の豪邸で育てられる。台北の健成小学から途中上海の上海日本第6小学に転校するが1942年に戦火のなか台湾に戻り1945年、台北二中(現・成功中学)に入学して敗戦、戦後の台湾の動乱期には香港に留学し英国貴族学校たるRoyden Jouseに学び1950年そのまゝなら英国留学だが祖父の願ひもあり東京で進学するところとなり駿河台にあつた西川伊作の文化学院に入り東大だ早慶だと勧められるなかジャーナリズムに関心あり明治大学に進学。戦後の日本で自動車に乗りスーツを着こなし葉巻を咥へた若者など、さうゐるところではない。友人は最高裁長官田中耕太郎の息子の耕造で招かれるパーティは旧華族や財界の御曹司才媛の集まるところで正田美智子さんとも語らへば自分の家が台湾で日清製粉の総代理なのだから話も弾む。耕造に美智子さんは「おまえのものじゃないよ」と言はれたのは田中耕太郎が皇室会議のトップで皇太子の妃選ぶ任務だつたからで、そんなパーティも実はお妃選びのため。財閥の三代目の御曹司で学業も遊興もトップクラス、明大卒業でエール大学の国際経済研究所も入れたところ超英は当時の台湾人で在日の無国籍状態で中華民国の東京にある大使館は台湾留学生へのパスポート発行拒みパスポート取得のためには台湾に戻らねばならず1957年に台北に戻つたが蒋介石国府による戒厳統治のなか暗澹たる社会で若者が海外渡航も困難。友人から国府の役人になるのが海外脱出の早道、外交部か新設の新聞部で前者の方がより機会多いが超英のジャーナリズム関心強く新聞部に。英語と日本語堪能で頭角表し国際処連絡室の連絡官となり訪日阻止されたアイゼンハワー大統領の訪台などに遭遇。台湾(と超英はずつと書いてゐるが)性格には中華民国を海外で紹介する官制ドキュメンタリーの監督までやつて1967〜1980年まで新聞部のニューヨーク駐在となる。折から中国の国連加盟(台湾の脱退)、米中国交正常化、野球の世界リトルリーグで台湾チーム優勝、在米の台湾学生らによる台湾独立運動に取材として近づくなど激動の時代。そして日本語堪能買はれ国府が国交断絶した日本の東京駐在となる。当時の日本のマスコミでの台湾の扱ひは冷たくなつてゐたが戦後の台北時代にドナルド=キーン連れ台湾に来て面識得た永井道雄の紹介で民国台湾の政府系ジャーナリストながら朝日新聞、そして毎日、NHK、読売など関係深め*2台北でエリート官僚で新聞局長となる宋楚瑜に頼られ未来の首相、相当候補を日本に近づける役割果たす。その成果が日本テレビの氏家斎一郎を通じての宋楚瑜の軽井沢ゴルフコースでの時の首相中曽根康弘との接触中共反発で外交問題になるレベルの快挙だが、この超英の働きが面白くないのは在東京の民国政府外交筋で超英は「国府の公務員としてのジャーナリスト稼業も潮時か」と1985年に52歳で退職。余生は米国に戻りドキュメンタリー系プロダクション立ち上げ還暦でリタイアのつもりで台湾に戻ると日本のNHKのやうな公共放送として設立された公視の顧問となる。だが外省人の多い公視は当時、経国時代の台湾で高まつてゐた民主化や自由の動きに全く対応してをらず落胆のところ政府新聞部から再度、新聞部の東京代表就任の声がかゝる。時の総統は蒋経国から禅定された李登輝。赴任前に李登輝相当に面会すれば総統も超英可愛がり二度目の東京時代は李登輝の台湾をどう日本に売り込むか、になる。李登輝コーネル大学訪問で日本の新聞一面トップにこのニュースが来るよう情報流し、APECの大阪での会合に李登輝総統参加能はずも海基會董事長・辜振甫*3の参加。この当時、日本の大勢はまだ中国を向いており外務省での「中国グループ」の力は強かつたが2001年に脱北者瀋陽の日本総領事館に入つた際に総領事館側が中国の官憲を用ゐて脱北者引き渡した「瀋陽事件」や江沢民来日で宮中晩餐会で日本側に「正確的歴史認識」求めるなど外交上の不手際続き嫌中感が強まるなか相対的に台湾のイメージアップが図られる。最大の売りは「李登輝」で台湾の民主化実現させた際に、さすがにノーベル平和賞は逃したが、朝日の船橋洋一大前研一らによる李登輝総統インタビューなど好感度を上げ、超英の仕込みにより『台湾の主張』がまず日本語で発行されベストセラーに。このやうな仕事を成し遂げ2度目の東京勤務を終へ超英は1998年に66歳で台北に戻り日台交流などに関はり2003年から隠居生活。豪商の三代目として昭和8年に生まれ、時代は戦争から戦後の動乱といふ時期だが何一つ不自由なく育ち戦後の東京で驚くほど洗練された学生生活を送るわけだが張超英の大したところは、それでその生活で堕落せず贅澤とは無縁にジャーナリストとして生きていかうと考え而も民国政府の新聞部でジャーナリストとはいへ公務員暮らしを長くしたところが面白い。彼の人柄、その語学力が幸ひして台湾史の中でも対日関係で特異な位置で功績残したことになるが何より超英といふ人の人格としての存在そのものが何とも人を魅了するところ。
衆院選。自民好調報じられるなか毎日新聞によれば晋三続投反対51%、それでどうして自民に投票するのか。秋田は男鹿の爺さんは経営する食堂の地下倉庫を「シェルター」にするがJアラートに「怖いけどや、慣れだな」と語り晋三を「歴代首相のなかでも好きだや。海外のトップとも渡り合って堂々としてるべ。自民党は安定してるがら大きな間違いはしないっぺす」と、この感覚こそまさに日本そのもの。この悲劇のなかの幸ひは立憲民主党支持(26%)が希望の党(20%)上回つたこと。小林よしのり立憲民主党の選挙応援買つて出て(写真)、鈴木邦男はまだわかるが石原慎太郎が枝野を褒める不思議。希望は民進取り込んだものゝ小池「排除」の言で現有議席確保も難しいさうで選挙後の崩壊するのみ。

リベラルとは既存の価値を守ることを重視する保守と急激な改革を志向する急進の間にある中道を示す。だから「改革保守」を掲げる希望の党は本来思想的にはリベラルに位置づけられる。それがリベラル排除を語るからワケがわからなくなっている。(坂野潤治

毎日新聞山田孝男(風知草)政界引退の亀井静香の言葉が政界の深刻さを物語る。
▼晋三が全国遊説のなか山口4区は昭恵夫人が頼り。昨年の今ごろ来港の昭恵夫人、当時は森友醜聞の前でまさに我が世の春。首相夫人でありながらプライベートでの来港はあやしげなスタッフを連れあやしげな湾仔のスピリチュアルな某所に立ち寄り香港で折から開催中の「日本秋祭」では法被を羽織り笑顔ふりまいてゐたもの。

国際広報官 張超英―台北・宮前町九十番地を出て

国際広報官 張超英―台北・宮前町九十番地を出て

*1:邦訳もあり『国際広報官 張超英―台北・宮前町九十番地を出て』まどか出版

*2:こゝで面白いエピソードは当時の親中ムードのなか国府と友好関係築いてゐた産経が超英による朝日や毎日等の台湾取材按排に台北で頻りに国府政府に苦言してゐたといふもの。

*3:超英は辜振甫の日本語は堪能レベルではなく戦前の日本の華族言葉だと書いてゐる。家は現在の民生西路、董事「ポラロ」といふ有名なカフェの向かひ。超英が中学生のときに辜家に遣ひを頼まれ辜家で玄関に出てきたのが振甫だつたといふ。振甫は当時の反日台独案件に加担があつたか香港に渡り学業続け張英も香港で何度か会つてゐたといふ。