富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

鳥越 キーン 角太夫

fookpaktsuen2017-05-28

農暦五月初三。日曜。朝早く書室で仕事一つ片付け。昼前のジョギング。ジムへの往復とトレッドミル。昼に好物、日清のチキンラーメン。午後読書。競馬は香港はチャーターカップでヘレンカリスマに賭けたがQE II Cup3着のWertherが強さ発揮。サイマルキャストの日本ダービーはアライン応援したがレイデオーロ(藤澤厩舎、Lemaire騎手)が優勝。
佐伯啓思著『反民主主義論』読む。護憲だ改憲だといつても所詮、米国統治といふ現実を改められないこと、憲法は本来「国のかたち」なのに「国を守る」と「憲法を守る」の対立。さうした佐伯先生の見立ては確かにその通りだがサヨクに対する生理的嫌悪に加へ右翼に対しても、その立場の弱さを批判しても結局では何か?といふと国のために命を落とした若者たちにどう我々は応へるのかといふ「海行かば」的なところに収斂されてしまふと、それで民主主義を否定できるか、といふと否定できないのだが。

mainichi.jp
鳥越文蔵博士1962年に渡英、大英博物館で数点の浄瑠璃本を見せられ、その中にあつた一つが日本に本のない「越後国柏崎弘知法印御伝記」。即身仏である弘智法印に纏はる話で自らの放蕩がもとで妻を殺された男が出家し厳しい修行の末に即身仏となる。貞享2(1685年)の刷りでドイツ人医師ケンペルが持ち出し。鳥越先生1966年に御伝記を他の浄瑠璃本と合はせて「古浄瑠璃集(大英博物館本)」として出版、親友ドナルド=キーン先生にも寄贈。その復活上演の話が動き始めたのは2007年になるが話は1967年にまで遡る。鳥越先生の早大一文に演劇研究志す一人の青年が入学。現在は新潟佐渡に在住する浄瑠璃人形遣ひの西橋八郎兵衛で早稲田小劇場の研究生となり大学中退し大阪で三代目吉田簑助さんに入門。佐渡に残る「文弥人形」魅かれ、それを習得。2004年に西崎が新潟に住む文楽三味線の五世鶴澤浅造を訪ね文弥人形の復活を誘ふ。浅造も文楽座で四半世紀を送つてゐたが肝炎患ひ新潟に帰郷中。家業は造り酒屋(鶴亀の上原酒造)で2006年佐渡で西橋と共演したが納得できる演目がなく仮名手本忠臣蔵を英訳したキーン先生に会ふべく上京。「2人は不思議なほど波長が合い2007年1月2日には東京根津神社へ初詣に出かけ」道すがらキーン先生が浅造に「鳥越先生が大英博物館で見つけた弘知法印御伝記という古浄瑠璃本があります、復活上演してはどうですか?」と提案。西橋にこの話をする浅造。恩師鳥越先生の演劇関係の蔵書2万冊の譲渡受け佐渡で「鳥越文庫」としてゐたほどの西橋にとつて恩師発見の本で越後が舞台。2008年に「越後猿八座」を旗揚げし御伝記も演じられたが2011年3月の東日本大震災が転機。当時、ドイツ出身の兄嫁の母が亡くなり「稼業に多忙」な兄・前衛芸術家の上原誠一郎(木呂先生)と入れ替はりに訪独してゐたが(このへんの話がこの記事、好事家以外にはちとわかりづらい)ドイツで福島の核禍につき説得されドイツに遺る決意。4月には公演あるのに戻らぬ浅造に西橋は怒り絶交。4月末に浅造帰国し西橋らに謝罪するが越後猿八座は解散。これとは別に当時紐育在住だつたキーン先生は日本永住決意しコロンビア大学退職し、この年の9月に東京へ。キーン先生、浅造のドイツ滞在といふ判断にも理解示し日本国籍を取得した2012年の春、浅造(角太夫)を養子に。鳥越先生の希望で西橋は浅造を許し、ついに近く6月初旬に大英図書館で御伝記の上演の由。毎日新聞に日曜連載のSストーリーは良質のドキュメンタリー記事だが今回の話は少し人間関係がわかりつらいとはいへ「浄瑠璃復活という大きな物語」あり、その伏線にキーン先生と角太夫の出会ひからまるで道行といふ愛情談あり、そこに大きく鳥越文蔵先生が絡むといふ様式美こそ素晴らしい。

反・民主主義論 (新潮新書)

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