富柏村香港日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴る日剩でござゐます

佐藤優『獄中記』

fookpaktsuen2018-07-29

農暦六月十七日。日曜。朝、ハーバー沿ひをジョギングして昼に冷麦を啜り午睡。午後に出街。陋宅からミニバス、そして地下鉄で金鐘のパシフィックプレイスに往復。酷暑恐れほとんど外気に触れず。だが車中も商場も冷房に凍える。ミニバスのフロントガラスはポケモン、手前はLINEという規則性がある。この数ヶ月、佐藤優『獄中記』(岩波現代文庫)少しずつ読む。600頁の大著。ミランクンデラ高橋和巳ゲルナーあたりまでは浅学のアタシでもわかる。ドイツ哲学でフランクフルト学派ハーバーマスくらゐなら名前は知つてゐるがアドルノ、ホルクハイマーだとか、さらにロシア思想でフローレンスキーだとかグミリョフ、ブルガーコフなんて全く珍紛漢紛。「アシュケナージュ系のユダヤ思想」という記述がありアシュケナージュといふ姓が(当然、アタシが知つてゐるのはウラジミール=アシュケナージュだが)この姓は本来は独逸に居住したイディッシュ語を話すユダヤ人のことだと知つた。以下、書き抜き。

  • 太平記』を読んでいて感じるのですが、われわれにとって『太平記』や『平家物語』の世界ははるか昔、中世の物語です。これらの世界は「物語」であり、批判的交渉を経た歴史とは異なります。しかしイスラーム世界の人々(とくに原理主義者)にとってはコーランや伝承(ハーディス)に書かれている世界がそのまま現実として受け止められています。現在の私たちの時代は源平合戦南北朝の動乱第二次世界大戦あるいは湾岸戦争を直接体験しているわけではありません。これらについては(教育を含め)情報として受け取った上で歴史的世界像を形成しているのです。日本でも少し前まで、例えば幕末の志士たちは『神皇正統記』『太平記』の世界と現実の世界の間に600年の時の隔たりがあるとは考えていなかったと思います。イスラーム世界は今でも7世紀のムハンマドと異教徒の戦いなどというのが昨日すぐそこで起きたことのように受け止められているのだと思います。原理主義者たちは歴史的事実の断片と現下情勢の断片を繋ぎ合せ世界像を作っているのです。
  • 日本の外交官は「不作為によって失われる国益」に関して鈍感です。
  • リッヒャルト=ゾルゲの処刑は1944年の11月7日。11月7日はロシア革命記念日。東條英機A級戦犯の処刑は1948年の12月23日で皇太子(今上天皇)の誕生日。対外的には平成のナショナルデーである天皇誕生日(敗戦で昭和天皇の早期退位があつたら、まさに戦後のナショナルデー)に当てたものか。
  • 北方領土問題も日本のナショナリズム問題の一つ。北方四島に日本人が一人も住んでいないにもかかわらず、の非常に特殊な失地回復運動(イレデンティズム)。この運動の維持には国家の日常的宣伝が必要。
  • 日本を含め近代世界でいうところの歴史はユダヤキリスト教的な直線的時間理解、つまり初めがあり終わりがある構造。歴史の終わりは古典ギリシア語でいう「テロス」つまり終わりであり完成である目的がある。このテロス概念がメシア(救世主)の到来と結びついている。すなわち歴史が終わるときはメシアが到来して人類が救済されるとき。ここまではユダヤ教キリスト教も同一。そして(その先の)違いはというと、キリスト教の場合、救済はすでにイエス=キリストの出現で担保されていると考える。救世主はすでに現れておりキリストは再臨する。救いの根拠が担保されているので「希望」がキーワードとなる。歴史に底があるのなら、その底はすでに明らか。ブッシュ大統領の(そして今ならトランプだが!の)楽観説もすでに救済が担保された希望の原理だと考えれば理解可能。それに対してユダヤ教徒はそうしたキリスト教の楽観的な歴史館を信じられず終末において人類は救済されると信じる。そして「その根拠はまだ神から指示されていない」。ゴルゴダの骸骨はもとよりアウシュビッツガス室も広島長崎の原爆もまだまだ歴史の底ではない。もっとひどいことがあり得ると考える。
  • アメリカの植民地支配は英仏のような帝国主義的支配という理解がない。支配しながらも自由を与えている、と。インディアンの抹殺と同化も「愛」と見做すピューリタリズム。
  • 仏典をサンスクリット語から中国語に訳す過程で繁辞(copula)*1のない中国語で「〜である」を示すために「有」という漢字を用いたために中国経由の日本仏教に実体的概念が強くなってしまったのではないか。
  • (死刑囚の精神状態で)永山則夫の内的世界は例外的。『無知の涙』の出版が成功したことで永山は自己を他者に対して表現することに生き甲斐を見出した。『木橋』はまさにそのような作品。そのなかで永山はおそらく生き続けることに執着した。死の怖れを克服するために永山は永続する神に(この6.6平米の独房の中で)なってしまったのである。永山はニーチェの世界の住民になってしまったのだと思う。換言するならば永山はニーチェ的なものをテキストにすることができたので、それは一つの「文学」に成りえたのだと思う。
  • 客観的な証拠調べによって犯罪を証明することができるとする近代刑事訴訟において本来「自白」は必要ない。しかし捜査機関のみならず裁判所までもが自白を重視し必要とするのはなぜか? フーコーはその要因として?自白は最良の証拠で矛盾する証拠を整理し、弁護側の反証に対して有罪を目論む立場の人々の作業を軽減するから。?被告人自身に自らの犯罪を断罪させ反省の意を公開の法廷で述べさせることによって社会に対する教育的効果を上げる。

獄中記 (岩波現代文庫)

獄中記 (岩波現代文庫)

*1:日本語では例えば「だ」「です」「(で)ある」「(で)ない」「らしい」「ようだ」「ちがいない」「しれない」「そうだ」「になる」などがこれにあたる。一般に行われている学校文法では「だ」「です」「らしい」「ようだ」「そうだ」は助動詞 の一部として扱われている。また、名詞と名詞の関係を表す「の」のうち「である」で置き換えられ、同格を表すものをコピュラに入れる場合もある。これらのうち、「です」「である」「になる」などは存在を表す「ある」という語から派生してできたものである。