富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

活力日本

fookpaktsuen2012-03-23

農暦三月初二。本当なら休養すべき最悪の体調だが今日は休めず。朝イチでクリエイティブな打合せに始まり昼前に九龍湾の九龍灣國際展貿中心(KITEC)へ府中S氏お連れする。総領事館主催で「活力日本」(Genki Japan、こちら)なる震災復興催事あり開幕式で末席汚す。この催事は外務省が中国三都市(北京、上海、香港)で開催の「元気な日本」キャンペーン(こちら)の一つ。「日本の安心・安全」を中国で伝へることが目的の由。だが実際に世界中が欲しいのはAKB四十八による歌舞音曲もいゝが「あっという間に鈍感になってしまった日本人の閉じた意識と、世界の厳しい目の温度差」の中で政府の冷温停止宣言に見られるズレた感覚で世界から「完全に孤立した」日本の危機管理の正常化*1だらう。今回のこのイベントで大手の広告代理店が手弁当で協力とも思へず、思ひ出されるのは香港で2003年にSARSのときに高額のギャラで外タレ招き歌舞音曲のイベント開催で香港の復活アッピールした大馬鹿なイベントだが、「復興」なんて言葉が踊り始めると少なからず「風が吹けば桶屋が儲かる」で誰かしら儲ける輩もゐるわけで、東京で貴重な資金がいつたいどこにどう流れたのか、は見てみたいところ。昨年の復興から手づくりのいくつものイベントに接してきたが正直言つて今日のこのイベントは出来合ひのモノを香港に持つて来ちゃひました的。香港的には人目避け隠遁従業続ける行政長官貧官曾がこの開幕式にVIPで参加で(三月八日は唐紅酒襲ひ政務司の林D9が主賓)会場に鳩まつたマスコミも関心は貧官曾。貧官はコメントもなく短い開幕式に参加のあと会場一巡するとマスコミに追はれおほわらは。午後に二つほど、だうしても外せぬ用事済ませ夕方帰宅してフラ/\で寝台に臥せる。数日溜つたメールで返事どころか読んでもをらぬメールもあり。一昨日から二日休暇とつたが失敗は官邸のPCのメールソフト開けたまゝで自動的にメール受信続けてゐたため外部でメール受信できずにゐたこと。こんなこと想定してゐなかつたので官邸のPCは受信後もメールをサーバーに残すなんて設定にしてをらず。メールは相手は勝手に送つてきてゐるだけなのに二日返事しないだけで不愉快そうに「メールご覧になりましたでしょうか?」ならマダしも「まだご返事いただいておりません」なんて催促が来るのだから怖い。参鶏湯。昼は熱がないが晩になると摂氏37度ほどで早寝。早いもので本日M伯父三年祭。
▼岩波『世界』四月号のルポ「なぜ避難が認められないのか 福島市渡利地区・住民たちの苦悩」(白石草)読む。福島の渡利が福島市でも放射線量の高い所謂ホットスポットとなつてゐる。記事では「福島市の中心部から車でわずか10分ほどの距離にある感性な住宅街」とあり多少の距離感を感じるが福島市の地理に明るければ市街から阿武隈川を渡つた対岸で、これは浅草から見た本所吾妻橋アサヒビール本社のあるところ)くらゐなのが渡利なのがわかる。祖母の弟が渡利七社宮の山田屋といふ酒屋の横丁に住んでゐて今も九十近い大叔母は矍鑠としたもので一人住まひされてゐる。アタシも子どもの頃から何度も遊んだ家で「なぜ此処が」と驚くが残念ながらあの昨年三月十五日の原発爆発のアトに北西に広がつたといふ放射性プルームが浪江、飯館を越へ渡利に大量の放射性物質を降らせた、といふ。この北西への流れがアタシの昔に地理的な記憶でも富岡街道(国道114号線)に該当する。浪江町を出発してこの街道は周辺の山を縫ふやうにして福島の渡利に至る。阿武隈川がまさかこの放射性プルームの川の対岸への北上を止めたとは思はないが市の中心部と川一つ隔てた渡利に飯館村や特定避難勧奨に指定されてゐる他の地域より放射線量が高いスポットがあるにもかゝわらず避難対象とならぬ現実。この地区の汚染状況を調べた結果、除染は不可能といふ専門家(神戸大学・山内知也教授)の報告(こちら)もある。この「世界」のルポで渡利がこんな市街地にありながら阿武隈川の対岸で1947年に福島市編入合併とアタシは初めて知つた。戦時中、福島市内で(って当時は厳密には市外だらう)唯一、爆弾が投下されたのが渡利でプラトニウム型原爆の模擬爆弾。B29の機体が爆風に巻き込まれないやうにと米軍の秘密部隊が行つた投下訓練だつたのださうな。原爆の模擬爆弾で威力はかなり大きかつたが当時の報道管制で「被害極メテ軽微ナリ」とされた由。模擬とはいへ原爆が原発放射能、なんて歴史の因果か皮肉か「被害は軽微」といふ説明まで一緒なのかしら。

世界 2012年 04月号 [雑誌]

世界 2012年 04月号 [雑誌]

*1:坂手洋二、劇作家、岩波『世界』四月号77頁参照